国際的にも活躍した人気作家としてだけでなく、週刊誌やテレビなどマスメディアにも幅広く登場し、当時の世の中の注目を集めた三島由紀夫。
1970年11月25日のあの衝撃的な出来事から、ちょうど50年が経ちました。
死後半世紀がたった今でも、数多く残されたその作品と謎めいたその存在、およびその死について多くの人が論じ語りつぎ、注目され続けています。
ここでは三島由紀夫についてこれから知りたいという人向けに、年表でその足跡をたどりながら、基本的なプロフィールや作家としての代表作、その生涯・人物像について、改めて見ていこうと思います。
三島由紀夫とは?
この後の年表でも詳しく触れますが、三島由紀夫の基本的なプロフィールは以下になります。
- 小説家、劇作家。
- 1925(大正4)年1月14日生まれ~1970(昭和45)年11月25日死去。享年45。
- 身長163㎝、血液型はA型。
- 東京大学法学部法律学科卒業後、大蔵省勤務を経て、作家活動に専念。
- 家族は妻と一男一女、両親とも同居。
三島由紀夫の生涯・年表
三島の生涯を、年表でたどっていきます。
なお、満年齢は昭和の年数と同じです。
誕生~祖母の死
西暦(元号)年・月 | 出来事 |
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1925(大正14)年1月 | 14日、東京・四谷にて、父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の 長男として生まれる。 本名・平岡公威(ひらおか きみたけ)。 |
1928(昭和3)年2月 | 妹・美津子誕生。 |
1930(昭和5)年1月 | 弟・千之誕生。 |
1931(昭和6)年4月 | 学習院初等科に入学。 (Wikipediaより。以下の画像も同じく) |
1937(昭和12)年4月 | 学習院中等科に進学。 |
1939(昭和14)年1月 | 祖母・平岡夏子死去(享年62歳)。 |
ひ弱なおばあちゃん子
幼少時は「おばあちゃん子」。
同居していた祖母・夏子は公威(三島)を両親から奪い自室で育てるなど、自分の強い影響下で育てました。
夏子は公威に男らしい遊びを禁じ、おとなしい年上の女の子と遊ばせ、女言葉も使わせたといいます。
身体も弱く、5歳の頃は「自家中毒」で危篤状態に陥ったことも。
虚弱体質で顔色も青白いことから、初等科当時のあだ名は「ろうそく」「アオジロ」だったとか。
三代続けて東大卒&官僚
祖父・父ともに、当時の東京大学卒業&官僚という家柄。
三島自身も、華族が主な生徒の「学習院」を経て、同じ道を進みます。
文壇デビュー~終戦
西暦(元号)年・月 | 出来事 |
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1941(昭和16)年9月 | 初めて用いた「三島由紀夫」のペンネームで、『花ざかりの森』が 国文学雑誌『文芸文化』に連載される。 |
1942(昭和17)年4月 | 学習院高等科に進学。 |
8月 | 祖父・平岡定太郎死去(享年79歳)。 |
1944(昭和19)年9月 | 学習院高等科を首席で卒業。昭和天皇の恩寵として銀時計を拝受。 卒業式の後、妹・美津子と |
10月 | 東京帝国大学法学部法律学科入学。 処女短編集『花ざかりの森』上梓。 |
1945(昭和20)年2月 | 「入営通知」を受け取る。 遺書をしたためたのち出立するが軍医に「肺浸潤」と診断され、 戦場に送り込まれる事なく帰郷する。 |
10月 | 妹・美津子が腸チフスのため死去(享年17歳)。 |
首席で卒業し、昭和天皇より銀時計を拝受
学習院高等科を首席で卒業。
ドイツ語を学び、運動は苦手だったものの成績はほぼ「上」で、極めて優秀な学生だったようです。
卒業生総代となった卒業式には昭和天皇も臨席し、銀時計を賜りました。
「形見」のデビュー作と、召集されなかった虚無感
戦況も激しくなっていき、いつ召集されるかも知れない中で「この世の形見」として、『花ざかりの森』を上梓。
公的に初めて出版された、三島のデビュー作品です。
戦死を覚悟して出立したものの「誤診」で即日帰郷となり、その後召集される事もなく終戦。
20歳時のこの経験が、死生観や戦後の社会に対する虚無感など、作家・三島由紀夫を形作る重要な要素となりました。
戦後~人気作家として縦横無尽に活躍
西暦(元号)年・月 | 出来事 |
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1946(昭和21)年1月 | 鎌倉在住の作家・川端康成と初めて会う。 |
12月 | 作家・太宰治と対面する。 |
1947(昭和22)年11月 | 東京大学法学部法律学科卒業。 |
12月 | 大蔵省に入省。 |
1948(昭和23)年9月 | 大蔵省を退職し、作家活動に専念する。 |
1949(昭和24)年7月 | 『仮面の告白』出版。 |
1951(昭和26)年12月 | 朝日新聞特別通信員として、初の海外旅行に出発。 ハワイ~北米~南米~欧州を約半年間で巡り、特にギリシャや ローマの古代遺産に感銘を受ける。 |
1954(昭和29)年6月 | 『潮騒』刊行。 |
1955(昭和30)年9月 | 自宅でボディビルを始める。 |
1956(昭和31)年4月 | 戯曲集『近代能楽集』刊行。 |
9月 | ボクシングを始める。 |
10月 | 『金閣寺』刊行。 |
1957(昭和32)年3月 | 戯曲集『鹿鳴館』刊行。 |
大蔵省を退職し、作家活動に専念
1947(昭和22)年に東大卒業後、大蔵省に入省。
しかし翌年の夏、役所勤めと執筆活動の二足のわらじを履く生活による過労と睡眠不足により、渋谷駅でホームから線路に転落する事故を起こします。
この事がきっかけで職業作家としての活動に専念する決意を固め、大蔵省を退職しました。
難産の末に出た初の長編小説『盗賊』&出世作となった『仮面の告白』
三島にとって特別な意味を持った戦争が終わり、直後には妹を病気で亡くし、初恋だった女性との別離も経験。
精神的に荒廃し、この頃の自分を「最も死の近くにゐた」と自ら振り返っています。
それらの体験や心象から構想を得て、戦後間もない1946(昭和21)年の正月より、初めての長編小説の執筆にとりかかります。
途中まで書き上がった部分を断片的に雑誌に掲載したり、一時は完成を諦めるなどしましたが、難産の末1948(昭和23)年11月、初の長編小説『盗賊』が刊行されました。
そして1949(昭和24)年、初の書下ろし長編小説となる自伝的作品『仮面の告白』が高い評価を受け、作家としての地位を不動のものにします。
書いた作品はどれも高評価、作家としての地位を固める
その後、古代ギリシャの恋愛物語『ダフニスとクロエ』を下敷きにした、健康的で素朴な若者の純愛長編小説『潮騒』がベストセラーに。
さらに、『金閣寺』という硬質な文学作品のみならず、『永すぎた春』『美徳のよろめき』といった一般大衆向けの小説もタイトルが流行語となるなどヒット。
『近代能楽集』『鹿鳴館』といった戯曲も高評価を博すなど、「文壇の寵児」として旺盛な作家活動を展開していきました。
肉体への憧れ
一方、もともと虚弱体質でやせた体形の三島は、強いコンプレックスを持ち、ギリシャ彫刻のような男性的なたくましい肉体へのあこがれが、強くあったようです。
30歳でボディビル、翌年にはボクシングを始め、さらに剣道や晩年には居合・空手に打ち込むなど、スポーツや武道で己の肉体を鍛錬するという、作家としてある意味で矛盾しているとも受け止められるような行為に、終生没頭していくことになります。
特に剣道では、43歳の時「五段」に昇段しました。
結婚~東京オリンピック
西暦(元号)年・月 | 出来事 |
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1958(昭和33)年6月 | 川端康成夫妻の媒酌により、杉山瑤子と結婚。 |
11月 | 剣道を始める。 |
1959(昭和34)年5月 | 大田区南馬込の新居に転居。 |
6月 | 長女・紀子誕生。 |
1960(昭和35)年3月 | 主演映画『からっ風野郎』公開。 |
1961(昭和36)年1月 | 『憂国』発表。 |
1962(昭和37)年5月 | 長男・威一郎誕生。 |
1963(昭和38)年9月 | 『午後の曳航』刊行。 |
1964(昭和39)年10月 | 東京オリンピック開催。各新聞社の特派記者として取材を行う。 |
12歳年の差婚&白亜の豪邸
33歳の時、日本画家・杉山寧の長女で日本女子大学の学生だった杉山瑤子(21歳)と結婚。
一男一女をもうけました。
結婚の翌年に建てられた新居は、和洋折衷を排した「ビクトリア風コロニアル」様式の白亜の豪邸。
週刊誌に掲載されたり、写真家・篠山紀信撮影による本も出版されました。
1964東京オリンピック
1964(昭和39)年10月、アジアで初となるオリンピックが東京で開催され、三島も特別な記者という立場で取材を行いました。
古代ギリシャ文明における「肉体と知性の調和」といった明るい古典主義に魅せられ、自身でも肉体の鍛錬を怠らなかった三島は、オリンピックの東京での開催を興奮をもって眺めたようです。
奇しくも没後50年の2020年は、2度目の東京オリンピックが開催されるはずでしたが・・。
歴史にタラレバは無いですが、仮に生きていれば「95歳」。
疫病も起こらず五輪が予定通り行われていれば、どんな風に観戦してただろうかと想像してしまいますね。
昭和40年代~死去
西暦(元号)年・月 | 出来事 |
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1965(昭和40)年9月 | 『春の雪』連載開始(昭和42年1月まで)。 ノーベル文学賞候補に挙がる。 |
11月 | 『サド侯爵夫人』発表。 |
1966(昭和41)年4月 | 映画版『憂国』公開。 |
6月 | 『英霊の聲』発表。 |
1967(昭和42)年2月 | 『奔馬』連載開始(昭和43年8月まで)。 |
4月 | 陸上自衛隊に体験入隊する。 |
7月 | 空手の稽古を始める。 |
1968(昭和43)年9月 | 『暁の寺』連載開始(昭和45年4月まで)。 |
10月 | 軍隊的集団「楯の会」結成。 『太陽と鉄』刊行。 |
12月 | 『わが友ヒットラー』発表。 |
1969(昭和44)年5月 | 東大教養学部での全共闘主催の討論会に出席し、激論を交わす。 |
1970(昭和45)年7月 | 『天人五衰』連載開始(昭和46年1月まで)。 |
11月 | 25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室にて割腹自殺。 享年45歳。 |
1971(昭和46)年1月 | 府中市多磨霊園の墓地に埋葬される。 |
ノーベル文学賞候補に
『仮面の告白』『金閣寺』『午後の曳航』など多くの作品が翻訳され、海外でも高い評価を受けた三島。
1963(昭和38)年度~1965(昭和40)年度には、川端康成や谷崎潤一郎などとともに、ノーベル文学賞候補として名前が挙がりました。
しかし受賞はならず、1968(昭和43)年に、三島と半ば師弟関係ともされる川端康成が、日本人として初めてのノーベル文学賞を受賞しました。
楯の会~最後の「行動」へ
自衛隊への体験入隊を経たのち、自ら『楯の会』を結成。
日本の文化と伝統を「剣」で守る民兵組織として、会員の学生らとともに過酷な訓練をたびたび行いました。
また、新憲法下での天皇や自衛隊の扱い、戦後民主主義社会の空虚さについてなど、各メディアでの政治的な発言が目立つようになります。
当時盛んだった学生運動にも興味を示し、「東大全共闘」など反体制の学生とも、自ら大学へ乗り込んで討論を戦わせました。
「夭折の美」を作品に描き、老いを極端に嫌っていたとされる三島。
「これが終ることが世界の終り」と語っていた最後の作品『豊饒の海』を完成に向けて書き上げつつ、楯の会の有志とともに、あの異様な「行動」に向けて着々と準備を進めていたようです。
いわゆる「三島事件」とは?
1970(昭和45)年11月25日、三島由紀夫および早稲田大生・森田必勝(まさかつ)ら『楯の会』メンバー5人が、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で、総監を人質に取り籠城。
建物のバルコニーから、集められた自衛官に向かって決起を促し演説。
その後、三島と森田が割腹自殺を遂げた、クーデター未遂事件です。
『檄』に込められた三島の最後の言葉
演説の際にバルコニーから撒布された声明文『檄』には、戦後民主主義と日本国憲法への批判、および自衛隊の国軍化を促す内容が記されていました。
戦後日本における、経済的繁栄と引き換えに失われた日本人の精神や魂、政治の腐敗や矛盾を糾弾。
その上で、天皇を中心とした日本の歴史・文化・伝統を守るという本義に立ち返り、「真の武士」として蘇るべく覚醒せよと、自衛隊員に決起を呼び掛けました。
辞世の句・遺書
自死に先がけて、以下の「辞世の句」が残されています。
「 益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜 」
「 散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐 」
また自宅書斎には、家族や知人宛ての遺書のほか、机上に
「限りある命ならば永遠に生きたい. 三島由紀夫」という遺書風のメモも見つかっています。
三島由紀夫の代表作は?
年表でもいくつか触れましたが、改めて三島由紀夫の代表作を見ていきます。
「発表年」は、最初に雑誌等に掲載された年を記載しています。
短編小説
タイトル | 発表年 | 内容 |
---|---|---|
花ざかりの森 | 1941(昭和16)年 | 初めて「三島由紀夫」を名乗った、実質的な公式デビュー作。 耽美的でアンニュイな雰囲気が漂う、詩的な作品。 |
岬にての物語 | 1946(昭和21)年 | 終戦直前から敗戦、その直後にかけて、 「少年時代の終末の感傷」によって書かれたという短編。 |
詩を書く少年 | 1954(昭和29)年 | 自らの才能を自認し、詩作に耽溺していた少年時代を描いた 自伝的作品。 |
海と夕焼 | 1955(昭和30)年 | 異国の地で寺男となったフランス人が少年時代を回想する、 人間存在と信仰について描かれた物語。 |
憂国 | 1961(昭和36)年 | 死とエロスを濃密に描いた、「二・二六事件」の外伝的作品。 作者本人も勧める、三島の全てが凝縮された小説。 |
英霊の聲 | 1966(昭和41)年 | 処刑された将校や特攻隊員らの霊が、天皇の「人間宣言」に 憤り、呪詛する様を描いた作品。 |
長編小説
タイトル | 発表年 | 内容 |
---|---|---|
仮面の告白 | 1949(昭和24)年 | 初の書下ろし長編小説で、自伝的作品。 他人と異なる性的傾向を自覚した「私」の告白の物語。 |
禁色 | 1951(昭和26)年 | 『仮面の告白』と並ぶ、三島の男色小説の代表作。 老作家が同性愛の美青年と共謀し、女への復讐を企てる物語。 |
潮騒 | 1954(昭和29)年 | ベストセラーとなり何度も映画化されるなど、一般的に広く 人気となった作品。健康的で素朴な純愛小説。 |
金閣寺 | 1956(昭和31)年 | 近代日本文学を代表する傑作として、海外でも高い評価。 金閣寺の美に取りつかれた学僧が、放火に至る経緯を語る。 |
鏡子の家 | 1958(昭和33)年 | 昭和30年代の高度経済成長期という「時代」の転換期を生きた、 若者たちのニヒリズムが描かれた長編。 |
午後の曳航 | 1963(昭和38)年 | 英国で映画化されるなど、国際的に評価を受けた作品。 未亡人とその息子、若い船員との関係が描かれる。 |
豊饒の海 | 1965(昭和40)年 | 死の直前まで5年を要して書かれた、三島文学の集大成的作品。 「輪廻転生」がテーマで、全四巻からなる。 |
戯曲
タイトル | 発表年 | 内容 |
---|---|---|
近代能楽集 | 1956(昭和31)年 | 能の謡曲を近代劇に翻案した戯曲集。舞台芸術として 国内外で高く評価され、数多く上演される。 |
鹿鳴館 | 1956(昭和31)年 | 明治時代の鹿鳴館で催された大夜会が舞台。 ドラマチックな悲劇が、華やかな様式美で描かれる。 |
サド侯爵夫人 | 1965(昭和40)年 | フランスなど海外で人気。 「戦後演劇史上最高傑作の戯曲」と評される。 |
わが友ヒットラー | 1968(昭和43)年 | ヒトラーによる「レーム事件」を元にした作品。 レームの友情と、ヒトラーの思惑との会話劇。 |
癩王のテラス | 1969(昭和44)年 | 三島文学の主題が色濃く反映された最後の戯曲。 王朝の衰亡を背景に、病魔に侵された王の愛と夢の物語。 |
なお、三島由紀夫を初めて知る人におすすめの本・映画については、こちらの記事で紹介しています。
三島由紀夫の好きなもの&嫌いなものは?
ここでは、作家としての堅苦しい興味や関心を除いたユーモラスな一面がうかがえる、「人間・三島由紀夫」の好きなもの&嫌いなものについて見ていきます。
大の猫好き
三島は猫好きとして知られ、猫と一緒に写っている多くの写真が残っています。
結婚後も、書斎にやって来る飼い猫の「チル」に煮干しをあげ、夫人が嫉妬するほどの可愛がりようだったとか。
猫について書かれた三島の文章を、以下に引用します。
あの憂鬱な獣が好きでしゃうがないのです。芸をおぼえないのだっておぼえられないのではなく、そんなことはばからしいと思っているので、あの小ざかしいすねた顔つき、きれいな歯並、冷たい媚び、なんともいへず私は好きです。
(『猫「ツウレの王」映画』より)
私は猫が大好きです。理由は猫といふヤツが、実に淡々たるエゴイストで、忘恩の徒であるからで、しかも猫は概して忘恩の徒であるにとどまり、悪質な人間のやうに、恩を仇で返すことなどはありません。
(『不道徳教育講座』より)
漫画・劇画好き
「おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画」を三島は好んでいたとか。
水木しげる・つげ義春・好美のぼる、といった漫画家の本を所蔵していたといいます。
また、赤塚不二夫の『もーれつア太郎』を小学生の子供たちと奪い合って読み、ボクシング好きということもあって『あしたのジョー』(梶原一騎原作・ちばてつや画)も愛読していました。
喫煙&食生活
タバコの『ピース』を、1日3箱ほど吸っていたというヘビースモーカー。
死の前夜にも、同居する父親にタバコの吸い過ぎをたしなめられたようです。
当時の週刊誌などに紹介された、自宅での食生活。
- 午後2時(朝食):トースト、目玉焼き、グレープフルーツ、ホワイトコーヒー
- 午後7時(昼食):週3回はビフテキと、付け合わせのジャガイモ・トウモロコシ・サラダをたっぷりと馬の如く食べる
- 夜中(夕食) :軽くお茶漬け
ちなみにお酒は、家ではほとんど飲まなかったようです。
カニの「姿」が嫌い
何を隠そう、私はカニに弱い。私はカニといふ漢字ぐらゐは知ってゐるが、わざわざ片仮名で書いたのは、カニといふ漢字を見ただけで、その形を如実に思ひ出して、卒倒しさうになるからです。
(『不道徳教育講座』より)
このように、三島は「蟹」の姿が非常に苦手だったようです。
ただし、カニの肉自体は大好物。
むしったものや缶詰のカニ肉は喜んで食べるものの、缶詰に貼られたレッテルのカニの絵が苦手なので、急いではがして破いて捨ててから、中身を食べたそうです。
まとめ
以上、日本を代表する作家・三島由紀夫の経歴や生涯、代表作や好きなもの&嫌いなものまで、まとめて紹介してきました。
戦後の高度経済成長期にこの日本の社会に現れ、表現者としてあまりにも異質であった三島。
その優れた数多くの作品とともに、没後50年経た今も、この社会やそこで暮らす私たちに、鋭く何かを突き付けてくる存在ですね。
三島原作の映画についてはこちら。